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2010年6月20日 (日)

競争の作法

競争の作法』齊藤誠著(ちくま新書)

 2008年秋、日本経済はアメリカに始まったサブプライムバブルの崩壊にともなって急激な景気後退を経験し、非正規労働者の雇用調整が行われた。2008年から2009年の年末年始には、日比谷に派遣村が作られ、人々の大きな注目を集めた。ところが、2002年から急激な景気の悪化の少し前の2007年まで期間は、「戦後最長の景気回復」の時期だった。同時に、この期間は、人々の間でその景気回復を実感できた人は少なかった上、格差の拡大が人々の間で大きな関心を集めた時期でもある。このように2000年代の日本経済は、非常に大きな景気変動を経験した。

 では、景気回復が続いたのに、私たちはなぜそれを実感できなかったのだろう。非正規労働者の雇用調整はなぜ生じたのだろうか、それは格差問題と関係あるのだろうか。

 2010年の夏の現時点では、少しずつ景気が回復しており、2000年代に発生した経済問題を頭を冷やして考え直すいいタイミングではないだろうか。もし、私たちの経済の運営の方法や社会の仕組みが、2000年代に発生した問題を引き起こす原因であったのならば、今こそ、それを修正する絶好のタイミングではないだろうか。本書は、その手がかりになってくれる。

 誰でも入手できるマクロ経済統計とマクロ経済学の標準的な枠組みを用いて、2000年代の日本経済の長期的な動きを本書はみごとに説明してくれる。経済学によく出てくる難しい数式は一切ない。割算が分かれば理解できるはずだ。経済学の知識も必要としない。非常に簡単なグラフと表だけで、読者は2000年代のマクロ経済の動きを理解できるのだ。ただし、齊藤氏の本の特徴だが、他の新書のように立ち読みや飛ばし読みをすることはできない。読者は鉛筆やペンをもって、論理をきちんと追っていくことが大切だし、そのためには、本を買って読む必要がある。実際、この本には線を引きたくなる箇所が多いので、読み始めたら、読者はペンを持って机につくことになるはずだ。

 著者の主張を大胆にまとめると、2000年代の経済問題の大きな原因は、資本市場においても労働市場においても国際的な製品市場においても、正しい競争が行われてこなかったことが原因だというものだ。競争が激しく、ふらふらまで働いているのに、という反論があるかもしれない。格差が発生したのは、行きすぎた市場競争のせいではないか、というのが多くの人の反応だろう。そう思った人こそ、この本を読んでみて、著者が出す証拠と論理を覆すことを試みてほしい。

 著者によれば、「戦後最長の景気回復」が生じたのは、物価安定のもとでのゼロ金利政策と円安政策が、実質輸出価格を低下させたために、輸出産業の業績があがったことが原因である。ところが、実質的な円安のために、日本人の購買力は低下し、生活水準は全く上昇しなかった。せっかく企業業績があがったにも関わらず、その成果は株主や労働者に還元されず、結果的に無駄になる投資に回されてしまった。これは、資本市場がきちんと機能しなかったことが理由だ。資本市場がきちんと機能しなかった理由として、著者は様々な政府の介入をあげている。著者はあまり強調していないが、企業の統治のしくみにも問題があるだろう。

 所得格差が生じた理由も明快である。国際競争力を保つために、日本企業が賃金コストを下げる必要があったにも関わらず、既存正社員の賃金をわずかしか下げず、賃金が低い非正規労働者の採用という方法で対処したことがその原因だという。実際、著者の計算によれば、年間1%ずつでも賃金を下げておけば、非正規雇用を増やす必要もなく、少数の非正規社員に賃下げのコストをおしつけて、格差や貧困問題を発生させることもなかったという。これも、労働市場が競争的であったならば、正社員に生産性よりも高い賃金を支払ったまま、非正社員に生産性よりも低い賃金を支払うということはなかったはずだ。格差問題は、行きすぎた市場競争ではなく、市場競争が足りないから発生したことになる。 

著者はまた、資産市場の非効率性が発生している例として土地市場についても議論している。土地価格が収益還元価格よりも低下した場合、つまり割安になれば、効率的に利用する人が買ってくれる。これが、2000年代、東京にブランド店が進出した背景にある。しかし、居住目的であれば、固定資産税や相続税が大幅に減額されるという状況では、地方の駅前であっても課税逃れのために土地の有効利用が進まず、土地価格も低下しない。税制のゆがみが、土地の非効率な利用をもたらし、日本の社会の生産性を低めているのである。こうした事実を、現実の統計データを突きつけられて知らされると、著者の説明に読者は納得するだろう。

 本書の魅力は、そのような経済学とデータによって日本経済が抱える問題点を明らかにすることだけではない。それは、本のタイトルにある「作法」について議論している点だ。

 私がこの本を書いたのなら、市場の歪みをなくしたり、市場競争を強化する仕組みを提案する形にするだろう。利己的あるいは非合理に振る舞う人々の行動が、競争のメカニズムを阻害するのであれば、それが補正するような仕組みを考えてみる。もちろん、すべて解決できるような提案はできないかもしれない。

 著者の書き方は違う。彼は人々に競争に進んで対峙していくことを勧め、競争に対峙する際の作法を説く。本当に自分の能力に見合った報酬を得ているかどうか、資産をもっている人はそれに見合う運用をきちんとしているか、そういう競争社会で生きていくための作法を私たちが身につけることが必要で、それによって私たちの幸福度はもっと上がるはずだ、というのが彼の立場だ。

 経済学者は、人々の価値観や生き方には、直接介入しないで、制度を作ることで、間接的に影響しようとすることが多い。しかし、制度をつくることに、人々が合意してくれなければ、人々がより幸福になるという観点で、経済学者が望ましいと思う制度も実現することができない。その意味では、著者のように、競争社会の「作法」を直接読者に熱く訴えかけるというのも必要なのかもしれない。他人に「作法」を説くだけではなく、著者はそれを実践している。その実践例は本書のあちこちに出ている。著者が勤める大学で、彼が新しい高齢化雇用制度に反対した時のエピソードは、彼の熱い思いを伝えてくれる。

目次

プロローグ ポスト・リッチ、プリ・ハピネスの時代
第1章 豊かさと幸福の緩やかな関係―リーマン・ショック後に失われた豊かさとは
第 2章 買いたたかれる日本、たたき売りする日本―「戦後最長の景気回復」がもたらした豊かさについて
第3章 豊かな幸福を手にするための働き方―競争と真正面から向き合うために
第4章 豊かな幸福を手にするための投資方法―持てる者の責任とは
エピローグ 競争と幸福の接点

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コメント

 大竹先生。先生の著書や、「ニューマク」スタディガイドで勉強させてもらっています。

 今回の「競争の作法」、日経のアンケート調査で、経済学の専門の先生の「BEST1」著書に選出されたので、読みました。

 大変、面白かったです。

 要するに、競争とは、自分自身との戦い、つまり、「生産性上昇」か、「今の現状ダダウン(既得権益の放棄)」を享受しようと言う心意気だと認識しました。

 競争は、自己改革ですから、「大変」です。でも、逃れられませんね。

 あともう一点、「ゼロ金利政策と円安政策」による、輸出拡大現象です。

 確かに、その通りなのですが、アメリカの金融緩和を始め、世界中で「金融緩和」が行われている現状で、日本だけが金融緩和を拡大しないと言うのは、戦術としてはどうかなと思いました。

 結局、「好ましくない」し、「円安恩恵」を享受できなかったのですが、「世界の現状」がよくも悪しくも「金融緩和」であれば、日本も、追随し、「デメリット」を無くす方向に動かざるを得ないのではないかと思いました。

 なりふり構わない政策には、「じっと耐える、正論を言う」だけでは、対応できないと思います。

投稿: 菅原晃 | 2011年1月13日 (木) 04時16分

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