カテゴリー「日記・コラム・つぶやき」の記事

2017年4月 6日 (木)

反事実的思考力

本を読むことで培われる能力の中で、一番重要なものは、反事実的思考力だ。そう言われても、なんのことか分からない人も多いだろう。説明してみよう。仮に、大学がある教育方法を取り入れたところ、学生の成績がアップしたとする。多くの人は、この新しい教育方法は効果があったと考えるだろう。しかし、新しい教育方法が成績アップさせるという因果関係が本当にあるかどうかはこれではわからない。因果関係を調べるには、仮にこの学生たちに今までの教育方法で教育したら成績はどの程度だったかを、実際の成績と比較することが必要だ。こうすることで、初めて新しい教育方法に効果があったかを比較できるのだ。ところが、「事実」は学生たちが新しい教育方法で教育を受けたというものである。彼らが従来の教育方法で教育を受けた場合というのは、この場合は「反事実」だから、実際には存在しない。それにもかかわらず、実際には存在しない「反事実」と比較しないと、様々な環境や制度が社会や人に与える影響を知ることはできないのだ。
 自然科学の分野なら、「事実」と「事実」を比較することで、因果関係を明らかにできる。光が植物の成長にどのような影響を与えるかを調べるには、同じ植物から取れた種をある程度用意して、同じ土壌、同じ水分を与えて、光を当てて育てるグループと光を当てないで育てるグループを比較すればいい。光を当てて育てるグループを対照群、光を当てないで育てるグループを介入群として、両者に違いがあれば、光が植物の成長に大きな影響をもつという因果関係を推測できる。
 ところが、社会科学の分野なら人為的にそのようなことはなかなかできない。学生をランダムに二つのグループに分けて、新しい教育方法と古い教育方法を試してみて、どちらのグループの成績が高くなったのかを比較するというのが近い方法だ。しかし、実際にはこのようなことが試されることは少なく、一律にカリキュラム改正が行われる。せいぜい比較対象は、それ以前の学生の成績だ。ところが、毎年、学生の資質や意欲はカリキュラムの改正とは異なる理由で変わっているかもしれない。ある学年は、意欲ある学生が偶然多かったかもしれない。また、ある学年の年は、非常に気温が高くて学習効率が低かったかもしれない。インフルエンザの流行があったかもしれない。様々な条件を揃えて比較しないとダメだ。
 社会科学では、実際には存在しない「反事実」と実際に存在している「事実」を比較するという困難な問題に、限られた情報で立ち向かわなければならないのだ。実際、社会科学を学ぶ過程では、反事実的思考ができるように訓練を積む。しかし、そのような能力を身につけるのは、なかなか難しい。実は、そういう能力を身につけるのに有効なのは、多くの本を読むことだ。多くの人は自分が経験したことからしか物事を判断できないからだ。
 「仮に、大学の授業料が全額税金で負担されて無償だったとしたら、大学教育授業料の負担のあり方や税金についてのあなたの価値観は今と異なっていただろうか」。この質問は、「オイコノミア」という経済学教養番組の収録で、若い一般の出演者が別の一般の人から受けた質問だった。この質問を受けた方は、うまく反事実的思考ができずに答えていた。そこで、「こういう条件だけを変えて考えてみて下さい」とヒントを出した。その議論を聞いていた番組の出演者である芸人で作家の又吉直樹さんが、「経験したことがないことを想像することは難しいですよね」と助け船を出してくれた。
 小説家でもある又吉さんは、人物の気持ちや行動を自分が経験したことがないことでも想像力で作り上げていくという作業を続けているので、その難しさをよく理解しているのだろう。また、お笑いのネタを考える上でも、仮にこのようなことを言えば、人々の予想と少しずれるので笑いが生じるはずだ、ということを常に考えているので、そうした能力が鍛えられているのだろう。よく人の気持ちを考えられる人になりなさい、という親や教師は言うけれど、自分がその立場だったらどう考えるか、ということは、反事実的思考そのものだ。
 フィクションであってもノン・フィクションであっても、本を読みながら、自分がその立場だったら、どのように考えて行動するだろうか、ということを考える。それが、反事実的思考力を鍛えることにつながる。反事実的思考力を培うことは、大学での勉強か研究に役に立つだけではない。将来、会社で働くようになっても、仕事で進めていく上で直面する問題の多くは、自然科学実験のような比較対象実験が簡単にはできない。その場合には、反事実的思考で、問題の原因を素早く探り当てることが必要だ。つまり、自分が経験したことがないことを想像する力だ。自分が実際に経験したことは、本当に限られている。本を読むことで、先人たちが経験したこと、考えたこと、想像したことを、自分の経験に加えることができれば、あなたの反事実的思考力は飛躍的に高まるはずだ。

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2016年9月 6日 (火)

チケット転売問題とチャリティ

チケット転売問題の解決法という私のコラムで一部のチケットをオークションにして、定価との差額を慈善団体に寄付すれば、というクルーガー教授の提案を紹介した。高倍率の一般抽選と高い参加料金によるチャリティ参加者枠という組み合わせは、東京マラソン大阪マラソンのように市民マラソンでは既に使われている。コンサートの場合と違って、マラソンの場合は申込者しか参加できないという意味で参加権が転売できない。それでも、コンサートチケットの転売問題には参考になる。

今後、コンサートの主催者が、チケットの個人認証システムを構築して転売することができないようにした場合に、どのような価格システムにするかということを考える上で有益だ。

仮に、チケット転売が不可能な状態で人気のコンサートチケットの抽選倍率が何十倍にもに達したとする。それでも、アーティスト側は、安いチケットで楽しんでもらいたいと思い、ファンは全て平等で同じ金額で、同じ当選確率でなければならない、という事態が続くのだろうか。熱心なファンの中には、何度応募しても抽選に当選しない不運な人も出てくるだろう。チケット転売もないので、お金を出してもコンサートにいくことができない。そういう状況になったときに、一部の席を高いオークションにするということは一つの選択肢だろう。しかし、オークションでアーティストや主催者側が儲けるのは公正ではない、という価値観があるのなら、マラソン大会で行なわれているようにチャリティ型にすることも考えられるのではないか。

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2016年8月30日 (火)

他店価格対抗しますという広告の本当の意味をしっていますか?

家電量販店の「他店価格対抗します」という新聞広告が入っていることが多いです。この広告は、実は価格値下げを狙ったものではなくて、価格維持を狙ったものなのです。そのことについてコラムを書きました。→ 「他店価格対抗します

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2013年6月18日 (火)

よく知っているものを選ぶかどうかは遺伝で決まっている?

日経センターのネットコラムに「よく知っているものを選ぶかどうかは遺伝で決まっている?」がアップされました。

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2013年2月14日 (木)

体罰の有効性の錯覚は「平均への回帰」が理由

日経センターのネットコラムに「体罰の有効性の錯覚は「平均への回帰」が理由」がアップされました。カーネマンの『ファスト&スロー』17章をもとに議論しています。

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2011年11月 3日 (木)

岡山大学のキャンパス

先日、岡山大学経済学部で講演をしました。そのときの様子が岡山大学経済学部のホームページにアップされました。講演は、ウォールストリート占拠デモの話題からスタートしました。講演後に岡山大学の先生に、「きれいなキャンパスですね。もとは、どんな場所だったのですか?」と聞いたところ、旧陸軍があったところを戦後、岡山大学の前身である六高の生徒が約200日間占拠したことが、岡山大学のキャンパスとなった発端だった、と聞いた。それを、最初から知っていたら、その話から講演を始めることができたのに、残念でした。講演は、多くの学生が熱心に聴いてくれたので、とてもありがたかったです。

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2011年5月 2日 (月)

上空からみた被災地の状況

4月29日に、小型ジェットで被災地の状況を上空からみる機会がありました。その時、撮影した写真です。

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2011年4月24日 (日)

「中央公論」掲載の震災関連の時論

「中央公論」の5月号と6月号の時論に震災関連のコラムを書かせて頂きました。中央公論新社に特別の許可を頂いて、ブログに掲載させて頂きます。特に、6月号のコラムは、まだ発売前であるにも関わらず、ブログへの掲載許可を頂いたことに、中央公論編集部に感謝いたします。

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震災復興に必要な熱い気持ちと冷静な視点
                    大竹文雄
 テレビに映し出される東北関東大震災の被害の様子を見た人は、誰もが自分にできることは何か、ということを自問するだろう。地震や津波による直接的な被害に加えて、福島第一原子力発電所の事故が加わった。仕事やボランティアで救援や復旧作業に直接携わる人たちだけでなく、多くの人が寄付や節電という形で貢献している。懸命な救援活動をされている人たちには本当に頭が下がる。
 当面、被災者の救援や援助に全力を尽くすことは当然だ。そこでは、医療、建築、土木といった技術をもった人たちの力が重要だ。同時に、その次のことを考えていくことも大切である。被災地域の復興をどうするか。震災の経済的影響は何で、今後の経済政策はどのようなことを念頭に置いて考えていくべきなのか。経済学者である私はどのような貢献ができるだろう。まだ、必ずしも被害の実態が分かっていない上、原子力発電所の事故の行方がどうなるか分からない状態であること、私自身の考えが完全にはまとまっていないということを断った上で、論点を提示したい。
 第一に、道路、鉄道、病院、学校、電気、電話などの様々なインフラストラクチャーの回復が効率的になされることだ。この部分は、市場メカニズムというよりは、計画が大事であり、その優先度を決めるのは、公平性と効率性の両方を加味した政治的意思決定による。公平性から言えば、被害にあった地域全てについて同じスピードで復興させることが望ましい。しかし、限られた資金のもとでどれだけ多くの人の生活を再建させることができるか、という効率性の観点から考えることは不可欠だ。津波で大きな被害を受けた地域や原子力発電所の周囲を全て元の状態に戻すことは、住民も望まないかもしれないし、仮に望んだとしてもその費用は大きい。地域レベルの人の移動をも含んだ復興の全体像が前提になる。また、将来の震災リスクを考慮した復興や制度設計も欠かせない。これは、同時に今回被害を受けなかった地域における地震対策や都市計画の見直しにもつながるはずだ。
 第二に、震災を経済学の視点から素直にみると、戦争の被害と同じで、生産能力が破壊された影響が大きい。つまり、供給能力が減ってしまったのだ。つい最近までは、潜在的に必要なものかそうでないかは別にして、生産能力が需要よりも大きいという認識のもとで需要振興的な景気対策が行われてきた。しかし、直接の被害が大きかった東北だけではなく、関東の計画停電は供給能力が低下したことを端的に示している。この認識のもとで、需要喚起を中心としてきた政策の方針を変える必要がある。生産能力が低下して経済が悪化したにも関わらず、需要刺激策をとると、インフレと不況というスタグフレーションに陥る。
 第三に、復興費用の調達の問題である。緊急に多額の復興費用が必要になる。このような事態を想定しないで策定された予算を見直すべきだ。子ども手当など震災を前提とせずに公平性を担保するための施策と、震災後の時点での復興とを比べて、どちらが公平性を高めることになるのか、考え直す必要がある。しかし、最低でも10兆円を超すような歳出に対して財源は足りない。そのため、国債発行や増税で対応していくことになる。では国債と増税のどちらがよいのか。国債で復興費用を調達して、将来世代がその費用を賄うべきだという考えもあるかもしれない。震災によってそれまで蓄積した富を失ったということを私たちは認識する必要がある。その損失を、日本人全員で広く負担するという保険の役割を果たすのが政府である。将来世代に復興の負担をいくらかは平準化できるだろうが、ただでさえ国債累積額が多い日本で全てを将来世代に負担させることはできない。特に、原子力発電所の事故による被害を、財源面でも将来世代に負わせるのは間違っているだろう。震災復興のために、消費税や所得税等の増税を検討するのは当然だ。国債についても、東京大学の柳川範之准教授は、負の金利の「復興債」という特別な国債を発行するという提案をしている。例えば、一般の国債よりも金利が三%低い「復興債」なら現在世代も費用を負担できる。
 第四に、生産資源が足りなくなった経済においては、できるだけ市場メカニズムを使って効率性を高めることも必要だ。電力が足りない場合には、電力料金の値上げも考えるべきである。「みんなで助け合ってこの危機を乗り越えたい」という熱い気持ちを有効なものにするためには、冷静な視点も必要だ。
(「中央公論」2011年5月号掲載)

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現場の力を活かすグランドデザインが必要だ
                   大竹文雄
 今回の東日本大震災では、災害にあっても略奪や暴動が発生せず、一致団結して整然と対処している日本人の行動が賞賛されている。災害救助や復旧作業の現場で奮闘されている人々は私たちの誇りである。このような現場の強さというのは、日本の製造業の強みとも対応している。
 災害時に整然と対応できる能力というのは、日本人が昔からもっている文化だという側面もあるかもしれない。しかし、吉村昭氏の『三陸海岸大津波』(文春文庫)には、明治二十九年と昭和八年の大津波の際には、そうではなかったことが記述されている。例えば、明治二十九年の津波の際の被災地の様子が「津波後の三陸沿岸一帯は、警察力も失われて一種の無法地帯と化していた。それに被災者たちは飢えに苦しみ、衣服も家財も失った者ばかりであったので、至るところに盗難さわぎも起こった。山麓に打ち上げられたタンス等を見出すと、人々は争ってその中の衣類や金銭をかすめとる。窃取を専門にした者も各村落に二、三名はいて、被災後それらの金銭や物品で富裕になる者すらいた(四八頁)」と描写されている。昭和八年の津波に関しても同様の記述がある。吉村氏の描写を信じるならば、今回、東日本の被災者が整然と協調的に対応したのは、戦前から続く文化ではなく、日本人の行動様式が変化したことを示唆している。もちろん、今回の震災でも、被災直後には、被災地で盗難があいついだことが報告されている。しかしそれでも、海外の大規模な被災地の状況からすれば、落ち着いていたのは事実であろう。
 戦前と現在の被災地の状況が異なったとすれば、経済学者として真っ先に想像できることは、当時と今の所得格差の大きさや貧困の程度の差である。近年、所得格差が拡大してきたことは事実であるが、所得格差は戦前よりも小さく、年金をはじめとする社会保障の充実もあって貧困の程度も改善されていたことは間違いない。そうしたことが、極限状態におかれても被災地の人々が協調的な行動をとっていることと関連しているのではないだろうか。また、被災直後からインターネットによる情報の発信ができたことも、被災地の人々の安心感を高めたのかもしれない。あるいは、別の理由で人々の間や制度への信頼という社会関係資本がこの東北地域に蓄積されたのかもしれない。
 私たち日本人が、この大災害に整然と対応できた理由を、日本文化だけではなく、社会のシステムから明らかにすることができれば、今後、様々な自然災害に直面する世界中の人々にとって大きな参考になるはずだ。
 ただし、災害に見舞われた人たちや現場で救援活動に携わっている人たちの頑張りだけにいつまでも依存するのは限界がある。うまく制度をつくって、個々の人々の努力に大きくは依存しないような救援、復旧、復興活動をしていかないと長続きしない。
 大規模災害からの復興では、政府だけではなく民間の力をどうやって利用していくか、という観点も重要である。今まで官が独占していた部分に、民間の力を積極的に利用できるような工夫が必要である。被災地では、建設労働者が非常に不足していると聞く。現行の労働者派遣法では、建設業務に関わる労働者派遣は禁止されている。人手不足があるのに派遣規制があれば、ヤミ労働が増える可能性がある。むしろ、被災地においては、建設業務に関する派遣規制を緩和するということも必要だ。
 あまり注目されていないが、厚生労働省が中心になって実務のプロが集まった「被災者等就労支援・雇用創出推進会議」の「『日本はひとつ』しごとプロジェクト」は画期的な方向性を打ち出している。被災者の中には仕事を求めている人も多い。援助される側になるだけではなく、被災者を雇用して被災者支援、復旧、復興の仕事をしてもらい、賃金という形で彼らの生活支援をしたほうが望ましい。これによって、復興と自立支援の双方の目的を達成できる。こうした支援方法は、キャッシュ・フォー・ワークと呼ばれていて、海外の災害援助では使われた実績がある。「日本はひとつ」しごとプロジェクトでは、この考え方が、現行の制度を利用することで取り入れられている。スピードが要求される被災者対策には、大きな制度変更を伴わないこともが大切だ。その意味で、現在の制度を知り尽くした官僚たちが、日本のためを思って省庁の利害を超えて、アイデアを出し合うということはとても重要だ。そのためには、現場の力と大きな見取り図のバランスが求められている。
(『中央公論』6月号掲載予定)

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2011年1月25日 (火)

日経に広告

1月25日の日経新聞朝刊の2面に、『競争と公平感』の大きな広告が掲載されました。大塚砂織さんのイラストとともに、空白を思い切って使ったなかなかおしゃれなものでした。本屋さんに、ポップとして使ってもらえそうな感じです。
「nikkeikokoku.pdf」をダウンロード

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2010年12月11日 (土)

オアゾ丸善さんの陳列

OAZO丸善さんで、『競争と公平感』を大量に陳列しているという情報を経セミ編集者の方から頂いた。写真をお願いしたら、店員さんの許可を得て撮影していただいた。写真1写真2写真3写真4

経済セミナーも大々的に陳列。 経済セミナー1経済セミナー2

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